自己紹介
私は、小学生の娘がおり、妻と3人家族です。40代で脱サラして起業し、マーケティングのコンサルティング業を行っております。クライアントは大企業が中心で、管理職の方から現場の方まで日々、お付き合いさせていただいております。
30代最後に大病を患った経験から健康には気を使っており、ジムには定期的に通ております。あと、娘がスキーを始めたこともあり、冬はスノボに行くことも多く、夏はプールと、それなりにアクティブです。個人の趣味はドライブが好きで、特に知らない土地に行って、走るのが好きです。そのため、関東圏(東京から半径400kmぐらい)の主要な街道は、ほとんど走ったことがあり、最近、知らない土地に行くのが難しくなってきています。どなたか、おススメのドライブコースがあったら教えてください。
経歴
- 学生時代
中高一貫の学校だったこともあり、中学の時から、まったく勉強はしてこなかったです。というより、めっちゃくちゃ遊んでいました。世の中の一般的な方は、上京して、大学生活でいろんな遊びを覚えると思うのですが、私は中学卒業までにすべて経験してしまった感じ。それが高校生の時には拍車が掛かり、いやー楽しかったです。何とか高校を卒業しますが、出席日数もギリギリでした。
もちろん就職するのは嫌なので、浪人しますが、勉強したのは世界史だけ。世界史だけ楽しかったんですよね。で、当然のごとく不合格。
親に、どこでもいいから大学ぐらい行っておきなさいと言われ、2浪。一応、塾にも入ってましたが、雀荘にいる時間も長かった。で、浪人中に成人式を迎え、小学校の同級生と久しぶりの再会。そこで、仲の良かった同級生に「がんばれ!」と励まされて、私のやる気スィッチが、Switch on!試験まで残り1か月、英単語2000、英熟語1000を丸暗記。結果、3流大学を補欠合格。その後、繰り上がって正式合格。
大学時代は正直、面白くなかったです。2浪しているというのもあるのですが、高校まで一通りの遊びをしてしまったので、同級生と話が合わないのです。生活スタイルが合わなすぎるというか。結果、どんどん大学に行かなくなり、2年生の時は、ゴールデンウィークから夏休み明けまで、ずっとお休みでした。この先、どうしようかな?と思っていた時、人生の転機が訪れます。
- フリーター時代
大学2年生の秋に、父親が余命6か月の宣告を受け、3か月後に亡くなりました。父親は事業をやっていて、母親は専業主婦だったので、当然、一家の収入はゼロになります。2個下の妹も大学に行っていたので、このまま大学に通う学費はありません。こうして、強制的に働かなくてはいけない状況に追い込まれ、大学は中退して、フリーターとなります。
すぐにでも働く必要があったので、飲食店で働き始めます。昼から夜はレストラン、深夜は居酒屋みたいな働き方で、月300時間以上、働きました。月額手取りで30万ぐらいは、もらってました。そんな生活を約2年間やった後、妹も大学を卒業し、母親も働いていたので、生活には困らないようにはなってました。
- パチプロ時代
少し気持ち的にも経済的にも、余裕も出てきたので、2年間だけ好きなことをさせてくれと母親に話して、一獲千金を夢見て、モデル事務所の門を叩きます。まあ、今思えば、無知の極みだな、と思います。芸能人になって一発当たれば、稼げるんじゃない?程度の考えからですね。モデル事務所に入って、最初のころはオーディションにも積極的に参加して、まじめに活動していました。でも、そんな甘い世界ではないんで、仕事なんかもらえません。
オーディションって前日に連絡が来て、受けに行くというような感じなので、バイトをすることも難しく、いつしかパチスロ・パチンコで稼ぐようになります。ここで中学・高校時代に遊んでいたことが活きてくるんですね。中高時代からパチンコで結構、勝っていて、知識もあったので、最低限、生活するには困らないぐらいは稼げました。
モデルの仕事は不定期ながら、いくつか仕事を貰えるようになってきたのですが、パチンコの方が稼げる状態なので、事務所に入って6か月後ぐらいから完全にパチプロでした。そこから2年間ぐらいパチプロとして、月平均100万円ぐらいは稼いでいました。(かなりどんぶり勘定で、正確な数字は覚えていないのですが、生活や遊びの支出もありつつ、貯金が100万円ぐらい毎月、増えているという状態)。正直、何の不自由も感じていなかったのですが、ある日、突然、“このままの生活を30歳になっても続けるのか?”と不安になったんです。30歳でこの生活をしている自分はありか?なしか?と自問自答して考えた結果、就職することを決意。27歳の時でした。
- 店長時代
思い立ったら吉日という事で、即行動に移します。まず、軍資金を持っていたら、パチンコに行ってしまうので、奨学金を一括返済。そして、求人情報誌を買って、何の仕事をするか探します。その中で目に留まったのが、レストラン事業を立ち上げたばかりでこれから拡大していくという企業。なぜ、目に留まったのかというとパチスログリーンピース(新宿南口にあったパチスロ専門店として有名)というパチスロ事業を行っていた会社だったから。勝手に親近感を持ちました。早速、履歴書を送り、すぐに面接、即採用。1週間後には勤務。というスピード感。(後に分かることだが、きつい仕事なので、離職率が高いんですね。だからよっぽど変な人でない限り即採用なんじゃないかな?今は知らないけど)
この会社、結構、自由度は高く、レストランのホール営業業務の他に、アルバイトの採用や店舗の広告業務、パーティースペースの広告、管理、商談、実施と全部やらしてくれんです。逆の言い方をすると何でもやらされる。役割分担がきっちりしている今の世の中において、多種多様な業務があり、営業時間はレストランがPM17:00-AM8:00、パーティースペース(主に結婚式2次会利用)が土日祝日の12:00-20:00ぐらいなんです。もちろん、シフト制ではあるんですが、AM8:00まで働いて、PM12:00から商談なんていうのは当たり前。昼夜逆転の生活で激務。ただ、年収は600万円ぐらいあったので、レストランとしては、良い方だと思います。
また、ここでも29歳の時にふと、“俺、このまま30歳代もこの生活なの?”と考え、改めて、ありか?なしか?を自問自答。転職を決意。条件は、昼間に働く仕事。深夜の労働がほんとにつらく、自律神経失調症を患っていたと思います。では、どこに転職をするか?
いろんな業務をやっている中で、ホットペッパーやゼクシィに掲載する原稿を考えることなどの広告業務だけは楽しかった事、また、ある時を境にホットペッパーのクーポンよりもホームページに掲載しているクーポンの方が利用率が高くなった事の2点から、次は、デジタル広告の世界に行ってみたいと考える。転職先が決まっていないが、レストランを退職します。
- 広告代理店時代
ネット広告、デジタル広告みたいなことが書いてある企業に、片っ端から履歴書を送りました。約50社ぐらいに送ったと思います。で、返信があったのは、1社だけでした。その1社は、ネット専業広告代理店の会社で、その当時の専務が面接をしてくれました。
専務曰く、募集要項からは、かけ離れているが、履歴書に書いてある志望動機を見て、呼んでみたとの事でした。30歳手前の営業経験なし、業界経験なし、の私が、志望動機に書いたのは、人生の目標でした。人生の目標は父親を超えること。とその当時の熱い想いをびっしり書いたんです。それに共感してくれたんだと思います。
そして、私はチャンスをいただきます。専務から「次に会うときまでに、デジタル広告のことを勉強してこい!テストをするから、それに合格したら、採用してやる!」と。
もちろん、出来る限りの勉強をして、2週間後、再度、面接に行きました。そこで専務に言われたのは、「いつから来れる?」という話。そう、テストは無く、最初の面接時に話を聞いてくれて、採用してくれたんです。率直にうれしかったです。私は、今日から働けます!と返事しました。結局、キリ良く、4月1日から入社したのを覚えています。すでに30歳になっていました。ちなみに、入社時の年収は300万円台でした。
専業広告代理店時代は、がむしゃらに働きました。やることすべてが初体験。30歳で、オフィスで名刺交換もしたことないですし、上座下座という概念さえないんです。ビジネスマナーをGoogleで検索しながら営業活動し、ネットのこと、広告のことをどんどん吸収しました。また、新規クライアントを獲得することがミッションだったので、テレアポして、多くの企業にも訪問し、様々な業界を見させてもらいました。
転機は2年目に訪れます。その企業が外資系広告代理店とジョイントベンチャーを立ち上げることになり、そこに出向することになったのです。クライアントは、グローバルの大企業ばかりです。英語もできないのに。。。出向前も夜11時、12時ぐらいまで働くことが多かったですが、出向先では、より激務になったことにより、始発で出社、終電で帰宅みたいな日々が1年続きました。正直、この1年が私を飛躍的に成長させることになりました。
1年の出向期間を終えて、帰ってくるのですが、グローバルの大企業相手にビジネスを経験してしまうと、どうしても物足りなさを感じてしまい、半年後、博報堂の関連会社に転職します。しかしながら、博報堂は、TV広告で稼いでいる会社という事もあり、デジタルが主流になっていくと考えている私には、合いませんでした。約1年4か月で退職します。理由は、ネット専業広告代理店の専務(その当時は社長)から戻ってきてほしい。と誘われたから。私を拾ってくれた恩人なので、戻らないわけにはいきませんからね。ただ、その2年後、母親が癌になったこともあり、働き方を変えようと決意し、広告代理店業界から去りました。
- EC会社時代
ヘッドハンターからの紹介もあり、グローバル企業のEC会社に入ります。運が良かった。英語もできないのに。。。(2回目)
出向した際に、外資系企業がどんな感じかは知っていましたが、実際に転職して入社すると、思っていたのとは違いました。すごく成果主義で、本社から言われたことは絶対、みたいな、窮屈な働き方を求められると思っていたのですが、意外にプロセスを評価してくれるし、ある程度、日本での裁量もあり、私としては非常に働きやすかったです。ただ、消極的な方や思っていることを発言できない方は、かなり苦労すると思います。要は、誰からも指示されないんです。誰もかまってくれないというか。自ら、どんどん行動していくタイプじゃないとカルチャーがフィットしないと思います。
同僚の方々は皆さん高学歴で、私から見ると全員エリートです。私はだいぶ異質でしたね。そんな中、よく約8年も働いたなと思います。給料は、外資系の中では低い方だと思いますが、日本企業をベースに考えると結構、貰えます。私は、一般社員から管理職まで経験したので、毎年、年収が数百万円ずつ上がっていましたね。
EC企業に在籍時から、起業することは決めていたので、とにかく自分が経験したことないことには、チャレンジしました。実際、多くのことを経験することが出来たので、非常に有意義な8年間でしたし、振り返るとあっという間でした。
ちなみに、40歳直前に多くの仕事を抱え過ぎ、大病を患います。それまでは、英語が出来るようになるために、英会話スクールにも通っていましたが、とにかくストレスは体に悪いと考え、それ以降、英語を勉強するのをやめました。要は、ストレスを溜めないために、やることを制限するしかない。何でもやるという考えから、自分の限りある労力を何に使うべきかと考え、苦手なものには工数を掛けないと決めます。ただ、得意な領域は、とことん伸ばす、そこに全労力を集中するという事をしてました。結果、昇進もできたし、外資系で英語が出来なくても何とかなるというのが分かったのは財産ですね。
- 独立後
広告代理店で得たもの、EC企業で得たものを使って何かできないかと考え、ECマーケティングのコンサルをしようと起業しました。コンサルティング業の経験はありませんでしたが、あえて最初はコンサル業界のことを勉強しませんでした。既成概念に捕らわれるのが嫌だったのと、小手先のテクニックに頼ってしまう危険性を感じていたからです。結果、試行錯誤しながら、大きな気付きも得られましたし、日々、自身が正しいと思うあるべき姿を目指して、邁進しています。
当ブログの内容
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